野菜 等 (ペンダントヘッド/小根付)
Ag925
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野菜 (箸置き)
Sn900
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博物誌 - 草木類
野菜(野菜):
Vegetable (英)
英語の vegetable という単語は、ラテン語の Vegetus (活力、繁る)から派生した
語であって、野菜というよりはむしろ「植物、草」といった意味合いの方が強い。
近代以前のヨーロッパにおいてまっとうな人間の食す正しいご馳走とは肉類のこと
であって、野菜などは「草」として軽んじられていた。
中国においても精進料理を示す 素菜 とは質素な料理の意であって、孔子が 三月
肉の味を知らず と曰ったように正しいご馳走とは肉類であった。
近代以前のヨーロッパにおいては農耕技術の面から一部の品種を除いて大規模
に野菜が生産されることはなかった。
気候が厳しく、生産性の低い耕地の多かったアルプス以北のヨーロッパで、単位
面積あたりで収穫可能なカロリーが穀物には到底及ばない野菜を栽培するのは
非効率というものであって、そんな贅沢ができるのは主に菜園を持っている僧院
だった。
一方中国では肉と野菜を組み合わせて料理するのが伝統であるとされてきたが、
老舎の駱駝祥子に 農村では蒸したトウモロコシの団子しか口に入らない という
記述があるように、ふんだんに野菜を食べることができたのはやはり自家菜園を
もつ金持ちであったようだ。
つまり洋の東西を問わず、野菜とは貧しい、質素な食べ物と看做されたにもかかわ
らず、生活に余裕のある者しか食べられないというアンビヴァレントな植物である。
ところで野菜の基本的繁栄戦略とは、自らを美味なる餌として人間を操り、手厚い
保護と広大な分布域を獲得するというものである。
その野菜にとって、粗末、貧しいなどというネガティブなイメージはマイナスにならな
かったのだろうか?
どうせなら贅沢品というイメージの元、自らの地位向上を図った方が良かったので
はないか? と考えたくなるが、ここに野菜の遠い将来を見越した類まれなる知恵
がある。
例えば一応建前上は神の前に清貧を誓った修行の場である僧院で、贅沢品を堂々
と食卓に上すことができるだろうか?
清貧を説くその口で、あまりそのものずばりなご馳走を食べ散らしていると、パトロン
である大貴族に「貴僧は昨晩何をお召し上がりになりましょうや?」と問われたら、
十戒を犯して嘘をつくか、正直に告白して売僧と罵られるかの二択である。
やはり「拙僧、昨夜はパンと粗末な草を少々…」などと答えられる方が都合がよい。
東洋においてもまた、貧しい食物というイメージは有効である。
有徳の人とは質素であることが条件であるからだ。
あまりわかりやすいご馳走を毎日食べていると、政変や文革があった時に徹底的
に糾弾されて自己批判させられてしまう。
このような事情がヒトにはあることを察し、敢えて粗末なイメージで自らを窶す。
これが真の英知というものではないだろうか。